
二十ニ、三歳の頃、必要なものはなにもないのに、
必要だと思わされている・・・という気持ちがあった。
どうしていいかわからないという感じ。
ほんとうにたいせつなものや価値は不定形のものに宿っている。
あなたの生活にコレが必要なんだよと気づかせてあげることが仕事だったとして、そこに傲慢さはないだろうか。
気づきを与えるのはそれが意図の外側にある時だけでは?
(それがものをつくる人間の葛藤なのかな、なんだかもどかしい)
結局いまでもどうしていいかわからない笑。
いまここに自分を生かすための経済活動。
楽しさや美しさは見出すもので、ただ在るだけのものは見出さなければただ在るだけ。
ユーカリの木が好きなのは立ち姿が気持ちよさそうだからだけれど、本人はそんなこと気にしてないだろう。
樹木は思考するだろうか?
しないかも。
園長は80歳になってキリがいいから「僕ねぇ、いま二十歳」だそうで、
その考え方でいくと、実年齢を4で割ればいい。
なら、じぶんは約8歳だ。
・・・・約8歳。
わらける。
約8歳の感覚でモノつくってんのかな。
まぁまぁ当たってはいる。
四十になったとき何してるか想像できないねぇ、と言われ。
多分自分がそのとき面白いと思えることを必死になってやっているだろうねぇ、と答える。